1.ナポレオン・ボナパルトの登場とフランス革命の終焉
(1)不安定な総裁政府
1793年から1794年にかけての恐怖政治が、1794年7月27日の「テルミドール9日のクーデター」で終わると、一連のフランス革命は一旦終焉します。
そして総裁政府(穏健共和政の枠組み)で「フランス革命」の収拾が図られましたが、政権はネオ・ジャコバン派と王党派の存在があって不安定でした。
理想を掲げて内容がない、まったく非効率な総裁政府に国民は疲れ果て、不満は頂点に達していました。(何だか日本の民主党政権時代を思い出しますが)
(2)「ヴァンデミエールの反乱」
そんな混沌の時代に、突如現れたのが戦術に長けた若い将校ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)です。
彼はフランス領コルシカ島出身の軍人ですが、彼がちょうど砲兵士官に任官した頃に、フランス革命が勃発しました。彼はその類稀な戦術力によって瞬く間に昇進し、1795年10月5日にパリで起こった「ヴァンデミエールの反乱」(「三分の二法」に不満を持つ王党派の蜂起)を大胆な砲術で鎮圧した功績で、国内軍司令官となりました。ちなみに「ヴァンデミエール」とは革命暦で「葡萄月」のことです。
そんな彼の率いるフランス軍には、その後の革命の流れによって志願兵が次々と集まり、欧州制覇への道を歩み始めます。
(3)ナポレオンのエジプト遠征
「イタリア遠征」から凱旋した29歳の青年将軍ナポレオンは、1798年春、タレーラン(1754年~1838年)の示唆に従って「エジプト遠征」を総裁政府に提唱しました。
これはイギリスの「インドへの道」を断ち切ってイギリス経済に打撃を加え、フランスがアンティーユ諸島で失いつつあった植民地の代替地を獲得しようとしたものです。
しかし、ネルソン提督率いるイギリス海軍に「アブキール湾の海戦」で敗れました。
なお、この遠征に彼は多くの学者を同行させ、「ロゼッタストーン」を発見しました。しかし現地のフランス軍がイギリス軍に降伏したため、イギリス軍の手に渡り、現在は「大英博物館」に保管されています。
(4)「ブリュメール18日のクーデター」
そして1798年にエジプト遠征から帰った彼は、1799年11月9日に側近者とともにパリでクーデーターを起こして、総裁政府を倒しフランス統領政府を樹立したのです。これが「ブリュメール18日のクーデター」です。ちなみに「ブリュメール」とは革命暦で「霧月」のことです。
このクーデーターの首謀者は、実はシェイエス(1748年~1836年)で、ナポレオンはクーデーターを成功させるための剣の役割でしかありませんでした。彼自身も「シェイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐しています。
日本で貴族が当初身辺警護をさせるために雇った武士に、やがて武力でとって代わられたのと似たようなものです。
この出来事によって、実質的にフランス革命が終焉したとされています。
(5)フランス皇帝に即位
シェイエスらが統領として職務に入る時、議長を誰にするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景にナポレオンがいち早く議長を買って出ました。
こうして彼は「第一コンスル」となり、シェイエスらを抑えて1804年5月に帝政を敷き、国民の圧倒的な支持を得て、フランス皇帝「ナポレオン1世」として即位しました。
これが新しい軍事独裁政権の「フランス第一帝政」です。
(6)ヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置く
フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した彼は、「大陸軍(グランド・アルメ)」と名付けた巨大な軍隊を築き上げ、フランスでの王政復活を企図する王党派との「ナポレオン戦争」を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス・ロシア・オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置きました。
彼は欧州制覇を目指す一方、民衆の自由と平等を実現するために、現在のフランス民法の土台となった「ナポレオン法典」を公布するなど、封建制度に代わる新しい社会体制作りを進めました。
2.ナポレオン・ボナパルトの退場
(1)ロシア遠征の失敗
しかし1812年の「ロシア遠征」の失敗でつまずきます。「ロシア遠征」とは、「大陸封鎖令」に違反したロシアに対して彼が行った遠征です。
「大陸封鎖令」とは、1805年のネルソン提督率いるイギリス軍との「トラファルガーの海戦」に大敗した彼が、その報復として1806年にイギリスとヨーロッパ大陸諸国との通商を禁止した勅令です。
モスクワを攻略しましたが、ロシア軍の焦土戦術に遭って退却、寒さとロシア軍・コサック騎兵による追撃によって惨敗しました。
(2)王政復古
1814年彼は対仏大同盟諸国との戦いに敗れ、3月31日にパリは陥落します。彼は外交によって退位と終戦を目指しましたが、4月4日の「将軍連の反乱」により、無条件に退位させられます。
4月16日の「フォンテーヌブロー条約」締結後、彼は地中海コルシカ島とイタリア本土との間にあるエルバ島の小領主として追放されます。
彼はローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者とするよう望みましたが対仏大同盟諸国に認められず、紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれました。
ブルボン家はフランス革命で王位を追われフランスを去りましたが、ナポレオンの失脚によって再びフランスに舞い戻り、「王政復古」となったわけです。
(3)百日天下
彼の失脚後、「ウィーン会議」が開かれ、ヨーロッパをどのようにするかが話し合われていましたが、「会議は踊る、されど会議は進まず」という言葉が示すように、各国の利害が絡んで会議は遅々として進みませんでした。
さらに王政復古でフランス王に即位したルイ18世(フランス革命で処刑されたルイ16世の弟)の政治は民衆の不満を買っていました。
そんな中、1815年に彼はエルバ島を脱出してパリに戻り、復位を成し遂げます。彼は自由主義的な新憲法を発布し、批判的勢力との妥協を試みました。そして対仏大同盟の連合国に講和を提案しましたが、拒否され再び戦争へと進んで行くことになり、彼の復活は「百日天下」(実際は95日間)で終わることになりました。
(4)対仏大同盟との戦いに敗北
そして、1815年6月18日、イギリス・オランダをはじめとする連合軍とプロイセン軍との戦いである「ワーテルローの戦い」に完敗し、南大西洋にあるイギリス領セントヘレナ島へ流刑となり、永久退場を余儀なくされました。