前に「過大な土木工事で庶民から怨嗟された皇極天皇(斉明天皇)」の記事を書きました。
この当時の天皇家は、有力豪族の蘇我氏を後ろ盾とする傀儡のような天皇もいれば、蘇我氏の専横に不満を抱く皇族もいるなど政争や謀略が渦巻いていました。
1.有間皇子とは
第35代皇極(こうぎょく)天皇(594年~661年、在位:642年~645年)という女性天皇は一旦「譲位」した後に、「重祚(ちょうそ)」して第37代斉明天皇(在位:655年~661年)となりました。
蘇我氏を後ろ盾とした皇極天皇が、「乙巳の変」で譲位した相手が第36代孝徳天皇(596年~654年、在位:645年~654年)で、その息子が有間皇子(ありまのみこ)(640年~658年)です。
2.孝徳天皇に対する中大兄皇子の離反
孝徳天皇の代になっても、実権は中大兄皇子が握り、「大化の改新」を推進していました。
孝徳天皇は、即位の翌年の646年に都を「難波宮」に移しましたが、これに反対する中大兄皇子や中臣鎌足は653年に都を倭京(わきょう/やまとのみやこ)に戻すことを求めました。
孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄皇子は勝手に倭京に戻り、皇族や群臣のほとんどと、皇后の間人皇女までもが中大兄に従って倭京に戻ってしまい、孝徳天皇は失意の中で654年に崩御しました。この後、有間皇子を差し置いて斉明天皇が重祚しました。
3.政争に巻き込まれるのを避けるために「心の病」を装った有馬皇子
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して「牟婁の湯(むろのゆ)」(南紀白浜温泉)に赴きました。
飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを伝えたため、斉明天皇は紀の湯に行幸しました。
4.蘇我赤兄の謀略と密告により有間皇子の「謀反計画」が露見
斉明天皇の行幸中、飛鳥に残っていた有間皇子に、蘇我赤兄(623年?~没年不詳)が近づき、「天皇の政治には三失がある。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ目、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ目、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ目である」と斉明天皇に対する批判的意見を囁きました。
蘇我赤兄の接近を喜んだ有間皇子は、それまで何も知らない振りをしていましたが、赤兄に気を許して挙兵の意思を告げました。その二日後、赤兄の自邸で密議していたところ、脇息が折れたため不吉だということになり、陰謀をやめることを互いに誓い合いました。
しかし有間皇子が自宅に帰った夜に、赤兄は部下に命じて皇子の家を取り囲ませ、駅馬で天皇に急報しました。この蘇我赤兄の謀略と、天皇への密告によって有間皇子の「謀反計画」が露見し捕らえられました。
中大兄皇子による尋問に対して有間皇子は、「天と赤兄が知る。吾は全く知らない」と答えました。しかし結局、有間皇子は共に謀議をしたほかの者とともに処刑されました。
ただし、蘇我赤兄は全く咎めを受けず、後に天智天皇(中大兄皇子)とその次の代の弘文天皇にも仕えています。
このことから、蘇我赤兄が有間皇子に接近したのは、有間皇子を排除し次の天皇の位を狙っている中大兄皇子の意を受けたものと考えられています。
有間皇子は人が好過ぎて蘇我赤兄の謀略と密告によって謀反人とされた「悲劇の皇子」です。皇位継承をめぐる争いは他の時代にもありましたが、恐ろしい話ですね。
なお、彼の辞世は次の二首です。
・磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む
・家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る