甲子夜話とは?平戸藩主の松浦静山が隠居後に、死の直前まで書き続けた随筆集

フォローする



甲子夜話

「日本三大随筆」と言えば、清少納言の「枕草子」・鴨長明の「方丈記」・吉田兼好の「徒然草」で、誰でも知っています。

ところでみなさんは、江戸時代の殿様が書いた「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆をご存知でしょうか?

義賊と呼ばれた大泥棒の「鼠小僧」の素顔に迫ったり、シーボルト事件や大塩平八郎の乱、赤穂事件、田沼意次の政治についても書いているなど江戸時代の世相や出来事を知る上で恰好の読み物となっています。

1.甲子夜話とは

甲子夜話

甲子夜話」(かっしやわ)は、江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(まつら きよし)(号は静山)(1760年~1841年)(下の画像)によって書かれた随筆集です。

内容は、大名・旗本の逸話や市井の風俗、怪異譚をはじめ、当時の政治・外交・軍事に及ぶ見聞録の集大成です。

松浦静山

書名の由来は、平戸藩主を退き隠居した後、この随筆が1821年12月11日(文政4年11月17日)の甲子(きのえね)に書き起こされたものであることによります。

その後静山が没する1841年(天保12年)まで20年間にわたり随時書き続けられ正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ「畢生(ひっせい)の力作」です。

殿様の随筆としては、「寛政の改革」で有名な松平定信の「花月草紙」(「花月日記」)と双璧をなすものです。

2.甲子夜話執筆のきっかけ

文政4年(1821年)、昵懇だった儒学者で大学頭の林述斎(はやし じゅっさい)(1768年~1841年)(下の画像)が松浦邸を訪れ、松浦鎮信(重信)の『武功雑記』(*)の話題となりました。

林述斎

(*)『武功雑記』は、肥前国平戸藩第4代藩主松浦鎮信(まつら しげのぶ)(天祥)(1622年~1703年)が記した戦話。1696年成立。天正〜元和期(1573年~1624年)の諸士諸将の武勲を雑記したもので、特に関ヶ原の戦や大坂の陣などについて詳しい。平戸藩は大坂浪人ほか多数の武芸に秀でた浪人を召し抱えたといわれ、彼らの体験談が基となった話が多く、記述の内容は信憑性が高いとされる。原本は不明だが、17巻構成の写本が伝わる。鎮信は和漢の学に造詣が深かった

述斎が個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである。君もやるべしと勧めこの話に触発されて勧めに応じた静山はその夜(11月17日)から筆を執りました。折に触れて述斎も内容を見ただけでなく、作中に彼の発言が「林子曰く」「林話に」などのかたちで紹介されています。

3.甲子夜話に書かれている話

甲子夜話

内容は、大御所・家康に関する逸話から、自身の青年時代の回想、藩主時代の田沼意次政権や松平定信が主導した寛政の改革の時期に関すること、執筆期に起きているシーボルト事件大塩平八郎の乱などについての記述を始め、諸大名や民衆の暮らし、町の噂、ろくろ首の奇談など社会風俗他藩や旗本に関する逸話人物評海外事情、果ては魑魅魍魎の話まで広い範囲に及んでいます。

特に、同時代の大盗賊・鼠小僧については逮捕から処刑までが詳細に記されています。

文学作品としてのみならず江戸時代後期、田沼時代から化政文化期にかけての政治・経済・文化・風俗などを知る文献としても重視されています。

(1)人物評

・同時代の大名から過去の偉人まで多岐にわたりますが、評価は主観的であり、また世間の評判と正反対の場合も見られます。

・赤穂義士を「大石の輩」と蔑称で記し、伏見の遊郭に「炬燵やぐらを持来せり」、十人も引き連れて豪遊し「墨硯をつまに持たせ天井に落書いたし候」と放蕩の様子を批判しています。

静山は公儀や天子様(朝廷)への御奉仕の自身の夜弁当は「僅か一飯三菜のみ」であり、連中が使った金は自身の工面では無かろうとしています。

他にも、大高源吾、小野寺十内ら義士の中では比較的著名な人物の悪口も見られます(正篇三十など)。

・巷間で「南部の大石内蔵助」ともてはやされた相馬大作も「児戯に類すとも云べし」と酷評されています。「弘前侯の厄、聞くも憂うるばかり也」と数頁にわたり同情が寄せられています

・上杉治憲は「寛政の名君」としてたびたび作中に取り上げられています。大日本帝国の「修身」教科書の原典らしい逸話も多くあります(正篇三、正篇十七ほか)。

ほかに国持・国持並大名としては伊達村候や鍋島治茂などが賞賛されています。

・徳川政権下では禁忌と思われる石田三成についても「佐和山の一城主で終わるべき人物にあらじ」と評価しています。

その一方、三成の旧友でありながら彼を捕縛した田中吉政が一代で絶えたのも、其の呪いだと述べています。静山は三成の遺刀「さゝのつゆ」を大切に保存しています(正篇九十一)。

・幕閣で学者や能吏として活躍した新井白石は「いかにもいぶかしき面体にて君子とは評しがたし」と極端に嫌っています(正篇四十一)。

白石が抜擢した室鳩巣の言動や著作についても「腐れ儒者」「笑止なる見解なり」と辛辣です(続篇七)。

・ただ若いころの新井白石を虐め、「奉公構」で苦しめた土屋(大名・旗本)氏も非難している点から、単なる個人的嫌悪による攻撃ではないようです。

・「鳴かないホトトギスを三人の天下人(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)がどうするのか」の詠み人知らずの有名な川柳も載せられています。

(2)世相

・京都の方広寺大仏(京の大仏)は当時大仏として日本一の高さを誇っていましたが、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまいました。

その時何があり、どのような経過を辿って焼失したかについて、東福寺の僧印宗より聞いた話(印宗の目撃談)として詳細な記述があります。

・佐竹義厚は前髪の美少年で「東叡山御防(防火役)なれば出馬せしが振袖の火事装束なりしかとや」。さらに3度も衣装替えをしたので、現場は人が集まり「かく着飾ることは未だ聞かざることなり」。全く婦女のようであったと驚いています(正篇九十四)。

・鼠小僧が捕まった時、井伊家は塀が高く「盗みも自由を得ざりし」、細川家の縁下に3日隠れていたが国持大名が毎夜「寵姫と酒宴せし有様、至て愚者に見ゆる」、松浦家からは7両盗んだなどと白状したが、静山はもっと多いと自覚していたので女中に嫌疑がかかるのではと心配しています(続篇八十四ほか)。

平戸藩も被害にあったせいか、数段を割いて鼠小僧の話題が綴られています。

(3)博物誌

・京都と江戸において、鈴虫と松虫の呼称が逆であると記されており(巻百、鈴虫松虫の弁)、『源氏物語』の「鈴虫」が実際には松虫であることの重要な根拠とされています。

余談ですが、当ブログでも「スズムシとマツムシの名前の逆転などスズムシにまつわる面白い話」という記事を書いていますので、ぜひご覧ください。

・燕の塩漬けが保存食(兵糧)として使用されること。

・河豚、くらげ(巻二十六)、蟻と似我蜂(巻三十一)。毒のある河豚を大名に食わせる話で、万一に備え予防線を張っておく落語の元ネタのような章もあります。

・荻生徂徠が「水を低地から高地へ導く方法」として「竹の節を破り去り、隙間のないように幾つも繋いで傾斜を緩やかにし、水面に浸した逆のほう(高地)を炙ると水が上昇する」というので、静山が藩邸で実験してみたが失敗した話。

(4)怪談・伝承

雷獣(巻之二、三十三条)、猫の踊り(巻之二、三十四条)、打ち出の小槌、鬼ヶ島、狐火など。

4.甲子夜話の後世への影響

前記の「ホトトギスによる性格分析」のほか、曾呂利新左衛門(米粒を倍々ゲームで貰う)の頓智、山鹿素行の著書にある「敵に塩を贈る」の故事など多くが、講談・落語・説話などの出典になり人口に膾炙しています。

本書の影響が読書人以外へも少なからずあったこと、そして静山自身が創作したオリジナルの物語こそ少ないが、聞き上手の人であったこと、読書家であり他人の発言を真偽かどうか試行するなど好奇心も強かったことが作品から覗えます。

イカの墨で字を書くと1年くらいで文字が消えてしまうことからずるをすることを「イカサマ」と呼ぶ(ただし「イカサマ」の語源については諸説あり)ことも甲子夜話から引用されています。

なお、勝負事でよく引用されるフレーズで野村監督の名言と言われる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」も、実は松浦静山の言葉(剣術書「剣談」が出典)です。


殿様と鼠小僧 松浦静山『甲子夜話』の世界【電子書籍】[ 氏家幹人 ]