忠臣蔵の四十七士銘々伝(その30)原惣右衛門元辰は主君切腹の第二報の使者

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原惣右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.原惣右衛門元辰とは

原 元辰(はら もととき)(1648年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は惣右衛門(そうえもん)です。変名は、和田元真、前田善蔵

大石内蔵助の参謀として、一挙の計画、遂行に多大の貢献がありました。

家紋:角内立葵(異説有)

2.原惣右衛門元辰の生涯

慶安元年(1648年)、米沢藩主・上杉綱勝家臣(馬廻り100石)のち大聖寺藩主・前田利治家臣(長松院付き)・原定辰の長男として誕生しました。

母は和田将監(小笠原家家臣)の娘です。弟に和田喜六(母の実家・和田氏を継ぐ)と岡島常樹(赤穂義士)がいます。

父・定辰は承応3年(1654年)頃に台所役人として不始末があって前田家を追放されて浪人しますが、延宝3年(1675年)、元辰は赤穂藩主・浅野長直に仕官し、後に弟の常樹も赤穂藩に仕えました。

延宝7年(1679年)、赤穂藩士・長沢六郎右衛門の娘を妻に迎え、彼女との間に1男4女を儲けたましたが、元禄5年(1692年)に妻は双生児出産のために死去し、後妻として水野七郎右衛門(姫路藩本多家家臣)の娘を迎えました。

元禄6年(1693年)の分限帳では250石となっていますが、元禄10年(1697年)8月14日に50石加増されて都合300石となり、また足軽頭に就任しました。

元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役にあたっていた主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及びました。

事変が起きたときは伝奏屋敷に詰めており、伝奏屋敷からの退去の指揮をとり、浅野家の什器類を運び出しました。その手際のよさに江戸幕府の目付は感心したということです。

その夜、長矩の養子(血縁上は弟)の浅野長広の書状を携え、大石瀬左衛門信清とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ向かいました通常15日の道程を4日で走破し、3月19日、浅野長矩切腹の報を赤穂へ知らせました

持参の書状は次の通りです。

大石内蔵助殿、大野九郎兵衛殿、岡林杢助殿、外村源左衛門殿、奥村将監殿、伊藤五右衛門殿、玉蟲七郎右衛門殿 一筆申入候、今般土屋相模守殿より采女正美濃守へ如斯の以御書き付被仰渡候間其元家中侍中末々迄並に町在り中に至る迄騒動不仕物静かに仕り罷在候様に急度可申渡候。右之通り被仰渡候間、重て被仰付有之まで物静かに仕り罷在り、尤も火の元入念候様に可被申付候。此上は大学殿為にて候間此趣家中面々に可申渡候恐々 三月十四日 浅野美濃守 浅野大学 戸田采女正

家老・大石良雄は総登城を命じ、連日評定が行われました。評定は篭城討死か開城恭順かで対立し、元辰は開城恭順を主張して大石に異議を申し立てる家老・大野知房に詰め寄り退去させています。

赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石良雄の御家再興運動を補佐し、同年9月には仇討ちを主張する急進派を説得するため大高忠雄らと江戸へ下りました。ところが逆に堀部武庸らに同調して急進派の中心となり、京都山科に赴き大石に仇討ちの決行を迫っています

なお、仇討ちを決行しようとしない大石に業を煮やした急進派は一時、元辰を旗頭に討ち入りを図ったといわれています。

元禄15年(1702年)7月、幕府は浅野長矩の実弟・浅野長広の広島宗家永預けの処分を決め、御家再興の望みはなくなりました。

これを受けて、京都円山の会議にて大石は仇討ちを決定すると、同年10月に元辰は岡島常樹、間光延らと江戸へ下っています。

12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石良雄を助けて司令に当たりました。武林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねました。

元辰は邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられています。

細川綱利屋敷へお預けとなり、世話役の堀内伝右衛門に寺坂は討ち入り時には逐電して、逃げてしまった」と寺坂が吉良邸には来なかった旨を述べています

元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣増田貞右衛門の介錯により切腹しました。享年56

戒名は、刃峰毛劔信士で、主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られました。

3.原惣右衛門元辰にまつわるエピソード

(1)文章家で大石内蔵助の参謀

①起請文前書

吉田忠左衛門が立案したものに加筆しました。

②討入り実況書

討入りから四家へお預け迄の記録。元禄15年12月24日付で大石内蔵助、小野寺十内と連名で原惣右衛門が書いて寺井玄渓に送った書簡です。

(2)子孫・親戚

長男・儀左衛門道善(つねよし)は、討ち入りに反対して父・元辰と義絶し、上洛して祇園の門前で漢方医「了郭」となりました。

漢方薬「御香煎」(現在は香料の扱い)を製造・販売する「原了郭」は現在まで続いています。広島の原家が絶えたため現当主(初代・了郭から13代目)が原宗家となっていますが、泉岳寺とは絶縁しています。

養子・兵太夫も討ち入りに反対して養子縁組を解除し、旧主・本多中務大輔家に戻りました。

切腹の折、3歳だった次男は、連座を避けるため出家して「春好」と名乗りました。享保8年(1725年)、25歳で還俗して「惣八郎」と改名し、広島藩浅野本家に250石で召抱えられました。その後、300石取りの槍奉行にまで出世しています。享年71。

元辰の菩提を弔うための供養墓が福昌山 圓隆寺に建てられました。後年の広島藩浅野家「侍帳」に原氏が見られないため、絶家もしくは上杉家中のように山田姓などに改めた可能性があります。

昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下で元辰や原一族の墓は全焼全壊しました。寺再建の際に元辰の妻・水野氏、惣八郎とまとめて縮小され、一基で「原家」の墓(遺体の埋葬を伴わない供養塔)とされました。

赤穂事件により罪が及ぶ連座を避けるため、元辰は上杉家に残る原一族(上杉藩士の従弟2名)と義絶しています。

従兄弟の子孫が米沢藩士(中士100石など)として続いています(原姓のほか鳥羽・山田氏が見られます)。

(3)遺品

元辰の遺品のうち刀「広国二尺九寸」、真筆の辞世などは熊本藩が継承していましたが、細川重賢が投棄し散佚しました。

衣類・武具装備は泉岳寺の住職が無断で売却し、寺の費用に充てたため行方不明となりました。21世紀になり、元辰が使った可能性のある脇差が発見され、赤穂大石神社は真贋鑑定ののち公開予定と発表しています。

明治天皇が元辰の刀を愛用しており、のちに昭和天皇が宮中の午餐会で大日本帝国海軍の将校達に披露したということです

(4)創作・巷説

仇討ちを決行しない元辰を老母が自害して諌めたという話が今日に伝わっていますが、後世の創作です。

史実における母(和田将監の娘)は、討ち入りに反対する和田喜六(元辰の実弟。母の実家・和田氏を継ぐ)を頼って元辰のもとを去り、82歳で病死しています。

4.原惣右衛門元辰の辞世・遺言

かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路

君がため 思もつもる 白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風

遺言:細川家世話役の堀内伝右衛門に、次のように頼んで切腹の座につきました。

「討入り実況書を内海道億(*)にお渡し下さい」

(*)内海道億は、浅野家の医師で浅野家断絶後は京橋に住み、復讐の議にも加わりましたが思い止まり、以後は浪士の治療や連絡役で貢献し大石内蔵助はじめ一同に信頼された人物です。



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