「老いらくの恋」で有名な歌人川田順やゲーテなどの面白い話と怖い話を紹介!

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川田順と鈴鹿俊子

(川田順と鈴鹿俊子)

<2022/9/30追記>落語家の六代目三遊亭円楽さんが肺がんのため逝去されました。

三遊亭円楽

演芸番組「笑点」のレギュラーとして活躍した落語家の三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名会泰通〈あい・やすみち〉)さんが30日、肺がんで死去しました。「団塊世代」の私と同い年の72歳でした。心よりご冥福をお祈りします。

彼は東京生まれで、青山学院大在学中の1970年、五代目三遊亭円楽に入門、三遊亭楽太郎。1981年、真打ち。

二つ目だった1977年から「笑点」のレギュラーとなり、大喜利ではインテリ風の毒舌で桂歌丸と掛け合いし、人気者となりました。2007年からは福岡市で秋に開催される「博多・天神落語まつり」をプロデュースするなど企画力を発揮しました。

「笑点」大喜利レギュラーという抜群の知名度を生かし、落語界の「外交官」として手腕を発揮しました。所属協会や流派の垣根を越えた交流を活発化し、一方では師匠の五代目円楽亡き後の一門の顔として、落語界全体の底上げに力を入れてきました。地方にも落語の裾野を広げた功績は大きいものがあります。

高座では、とぼけた滑稽噺(ばなし)のほか、小気味よい口跡で「浜野矩随(のりゆき)」といった人情噺を聞かせました。

落語は日本人がこさえた最高のエンターテインメント」とたびたび口にしていました。優しさや人情など「日本人の忘れ物」が落語の中にあるとも語っていました。

2010年、六代目三遊亭円楽を襲名し、その後も大師匠の名跡、三遊亭円生の襲名に意欲を見せていました。

2018年に初期の肺がんを公表。2022年1月、脳梗塞(こうそく)で入院しました。8月に高座へ復帰しましたが、肺炎で再び入院していました。

「老いらくの恋」と言えば、最近では落語家の代目三遊亭円楽さん(1950年~2022年)がアラフォー女性との逢引きを「FRIDAY」にスクープされました。

しかし、謝罪・釈明会見では「『老いらく』じゃなくて、円楽(えんらく)だっていうのに」と「大喜利のような爆笑会見」でけむに巻きました。円楽さんの憎めない人柄ならではです。

上方落語界では、前上方落語協会会長(第6代)の代目桂文枝さん(1943年~ )が元演歌歌手の紫艶(1978年~2019年)さんと長年蜜月関係にあったことが明るみに出ました。

なぜか「代目」は「ろくなことがない」ようですね。

また将棋界では、中原誠十世名人(1947年~ )が、元女流棋士の林葉直子さん(1968年~ )と恋愛騒動を起こしたことがありました。

最近の話はさておき、歴史を振り返っても、日本や西洋の文学者や作家、芸術家で「老いらくの恋」にまつわる逸話を残している人がいます。

1.日本の歌人・作家の老いらくの恋

(1)川田順

川田順(1882年~1966年)は、住友本社の常務理事まで務めたエグゼクティブですが、歌人でもありました。

彼は当初東大文科に在籍し、小泉八雲の薫陶を受けました。しかし小泉八雲が退任し、夏目漱石が後任になると、「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に移りました。しかし彼は法律学のことを無味乾燥でややこしい「黐鳥(もちどり)のかかずらわしき学問」と述べています。やはり文学への憧れは捨て切れなかったのでしょう。

1907年に東大卒業後、住友本社に入り、1930年には常務理事となり、小倉正恒の後任として住友の総帥たる総理事就任がほぼ確定していましたが、1936年「自らの器にあらず」として自己都合で退職しています。

彼は在職中から佐々木信綱門下の歌人として、また「新古今集」の研究者としても活躍しました。1948年66歳の時、歌道の弟子であった鈴鹿俊子(1909年~2008年)と人目を忍ぶ仲となります。彼女は元京大教授の中川与之助氏の妻でした。結局中川夫妻は離婚に至りますが、彼は自責の念に苛まれ、亡妻の墓前で自殺を図りますが一命をとりとめます。

その時詠んだ歌が「墓場に近き老いらくの恋は怖るる何ものもなし」です。「老いらくの恋」という言葉はこの歌から生まれました。これは川田が俊子に送った恋歌「恋の重荷」の序章にあります。前段は「若き日の恋は、はにかみておもてを赤らめ、壮士時の四十歳の恋は、世の中にかれこれ心配(こころくば)れども」です。

この歌に対して俊子は「命こめて作らむものを歌に寄せし この吾心君によりゆく」と返しています。なお翌年の1949年に川田は俊子と再婚しています。

ちなみに「老いらくの恋」の場合の「老いらく」は老年または老人のことですが、この言葉のもとの語形は「老らく」で、すでに奈良時代の万葉集でも次のように使われています。

「天(あめ)なるや月日のごとくわが思(も)へるきみが日にけに老ゆらく惜しも」

「沼名河の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉かもあたらしき君が老ゆらく惜しも」

余談ですが、俳人の山口誓子は1926年に大学卒業後、住友本社に入社しますが、上司が歌人の川田順だったので、この上司の理解を得て句作に励むことが出来たそうです。

(2)渡辺淳一

渡辺淳一(1933年~2014年)は整形外科医(医学博士)で作家ですが、「失楽園」「化身」「ひとひらの雪」「愛の流刑地」など不倫の愛と悦楽を描いた恋愛小説で有名です。

彼は「告白的恋愛論」などで、自身の恋愛遍歴をかなり大胆に綴っていますので、「老いらくの恋」の経験も豊富だったのでしょう。

(3)万葉集の歌人たち

①柿本人麻呂(660年頃~724年)

・石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神さびて恋をも我(あ)れはさらにするかも

(石上の布留の神さびた老杉のように年老いた私が、またまた恋をしてしまったことよ)

②大伴宿禰百代(おおとものすくねももよ)(生没年不詳)

・事もなく生き来(こ)しものを老いなみにかかる恋にも我は逢へるかも

(平穏無事に今日まで生きて来たのに、年老いてこんな恋に私は出逢ってしまったことよ)

③大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)(生没年不詳)

・黒髪に白髪(しろかみ)交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに

(黒髪に白髪が混じる老年の今日まで、こんな激しい恋には今まで出逢ったことがない)

・山菅(やますげ)の実成らぬことを我に寄そり言はれし君は誰れとか寝(ぬ)らむ

(山菅のように実らぬ私との恋を噂されたあなたは、今ごろ誰と共寝しているのでしょう)

④石川女郎(いしかわのいらつめ)(生没年不詳)

・古(ふ)りにし嫗(おみな)にしてやかくばかり恋に沈まむ手童(たわらは)のごと

(分別のつく老女だと思っていたのに、こんなにも恋に沈んでいます。まるで幼女のように)

2.世界の文学者・芸術家の老いらくの恋

(1)ゲーテ

ゲーテ(1749年~1832年)は、ドイツの詩人・劇作家・小説家・自然科学者・政治家・法律家と多方面に才能を発揮した天才ですが、彼も「老いらくの恋」の実践者でした。

彼は26歳の時、ワイマールで7歳年上のシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人と出会い、夫との仲が冷めきっていた夫人と12年にも及ぶ恋愛関係を続けました。彼女との恋愛によって無数の詩が生まれたと言われています。

39歳の時、クリスティアーネ・ヴルピウスという23歳の女性と恋に落ち、後に内縁の妻としました。「ローマ哀歌」は彼女への恋心をもとに書かれたものです。

58歳で恋をしたヴィルヘルミーネ・ヘルツリープは当時18歳でした。彼女への密かな愛が「親和力」執筆の原動力になったと言われています。

66歳で恋をしたマリアンネ・フォン・ヴィレマーは当時16歳で、31歳の銀行家の妻でした。「西東詩集」の「ズライカの書」においてズライカとして登場します。

72歳のゲーテが最後に恋に落ちたのは当時17歳のウルリーケ・フォン・レヴェツォーですが、彼女への失恋から「マリエンバート悲歌」が生まれました。

老いらくの恋に狂ってストーカーになったり刃傷沙汰を起こしたりせず、その情熱を優れた文学作品に昇華したのは、「さすが文豪!」と言うべきかもしれません。

(2)ピカソ

ピカソ(1881年~1973年)は、スペイン出身で主にフランスで制作活動をした画家・彫刻家です。キュビズム(立体派)の創始者で「20世紀最大の芸術家」とも呼ばれています。

彼の私生活における女性関係は自由奔放で、結婚しては愛人を作って浮気をしていました。

彼はオルガ・コルオーヴァと結婚していましたが、デパートの前にいたマリー・テレーズ・ワルテルに一目惚れして、彼女の腕をつかみ「君の絵を描きたい。私はピカソだ」と口説いたそうです。彼は当時45歳で彼女は17歳でした。

マリー・テレーズは芸術に興味がなく、欲もなかったので、伸び伸びとした付き合いができたそうです。しかし彼女が妊娠して子供を産んだ途端、ピカソは創作意欲を失ったそうです。

そして55歳の時、当時29歳のカメラマン・画家のドラ・マールという女性と交際を始めます。しかしマリー・テレーズとの間で喧嘩になり、女性二人から「どっちを選ぶのか?」と問い詰められますが、彼は「戦って決めればよい」と言って女性二人に喧嘩をさせ、その様子を笑顔で見ていたそうです。これは正妻・愛人二人とピカソという「四角関係」ですね。

その喧嘩を見て創作意欲が湧いたのか、そのころ「ゲルニカ」という争いの空しさを表現した作品を描いています。

「ゲルニカ」について、美術史家の宮下誠氏は「全体としてキリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果を描いている」ともっともらしく難解な表現で賞賛しています。しかし、実際の芸術家ピカソとしては、そんな高邁な思想を表現したのではなく、二人の女性の喧嘩にインスピレーションを得て、自分の好きなように描いただけではないかと私は思います。

さらに62歳のピカソは、当時21歳の画学生フランソワーズ・ジローと同棲生活を始め、二人の子供も生まれました。

しかし彼は自分は自由奔放な反面、相手を束縛する勝手な性格のため、フランソワーズ・ジローは彼に愛想をつかして子供を連れて出て行き、他の男性と結婚しました。

ピカソを捨てたフランソワーズ・ジローが、子供の認知を彼に求めた時、彼は「復縁」を条件に認知に応じます。しかし、その時すでにピカソは別の女性ジャクリーヌ・ロックと再婚していました。自分を捨てたことへの復讐だったのでしょうか?

ジャクリーヌ・ロックは、ピカソの最後の妻です。ちなみに、フランソワーズ・ジローは後にアメリカ人の科学者と再々婚しています。

3.老人の恋

最近は「人生100年時代」となり、元気な老人が増えて来ました。それに伴って老人ホームなどでも「老人の恋」の男女関係の諍い・もめごとがあるという話を聞いたことがあります。

中高年になって、妻を病気で亡くしたり協議離婚した男性が、「いつも側にいて心が安らぐ女性」あるいは「心がときめいて若返るような気持ちになる女性」を求める気持ちは自然です。

年老いても恋をすることはあると思います。もちろん、若い年齢の時とは違って「老いらくの恋」は「精神性」に重きを置いた恋が多いことでしょう。

森村誠一の「ホームアウェイ」という小説には次のような一節があります。

身寄りから置き去りにされた姥捨山で、ふと寄り添った二人が、似た者同士老いらくの恋へと発展したことは充分に考えられる。

ただ、「遺産相続で子供たちと揉める」とか、「遺産目当ての後妻業の女がいる」「後妻業の女による毒殺事件があった」などの話を聞くと、とても怖い気がします。正式な結婚をしない「茶飲み友達」程度であれば罪はなく、もめごとのリスクも少ないとは思いますが・・・

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