中国はなぜチベットを弾圧するのか?歴史的背景も含めてわかりやすく解説します

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チベットへの弾圧

最近、中国政府による「チベット族」や「ウイグル族」など少数民族に対する弾圧の報道をよく耳にします。

今回は、少数民族といわれる「チベット族」に対する中国政府の弾圧の理由を歴史を繙きながら考えてみたいと思います。

1.チベット族への弾圧

具体的には次のような弾圧が行われています。

(1)チベット僧に対する弾圧

15万人いた僧侶・尼僧が弾圧により、1,500人に減少したそうです。

(2)人権侵害

「思想」が原因で逮捕・投獄され、正しい裁判が行われていない可能性が指摘されています。

(3)寺院の破壊活動

数千もあったチベット仏教の寺院がほとんど破壊されたそうです。

(4)信仰の自由の束縛

チベット族の政治的・精神的指導者であるダライ・ラマ14世(1935年~ )の写真を、寺院以外の場所で掲載すると処罰されるそうです。

ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞を受賞している人物ですが、中国当局からは、「独立を扇動するテロリスト」と見られているようです。

(5)環境破壊

広大なチベット自治区内に核実験場を作り、核廃棄物や産業廃棄物の捨て場としている疑惑があるそうです。

次に、チベット族への弾圧についての書籍や週刊誌の記事を一部ご紹介します。

井沢元彦氏の「逆説のニッポン歴史観」では、次のように紹介されています。

チベットは独自の言語・宗教・風俗を持つ、漢民族とは全く違う民族国家である。しかし中国は、なんと第二次大戦が終わって4年も経過した1949年に、勝手に「領有宣言」し、翌50年には軍を進めて侵略を開始し、政治的主権を奪い自国の自治区に組み入れた。「ラマ教という迷信を信じた封建的社会を、我々中国が解放してやった」が名分。

また、櫻井よしこ氏の「国売りたもうことなかれ」では、次のように紹介されています。

●中国がチベットに行ってきた弾圧の凄まじさは筆舌に尽くしがたい。生爪をはがしたり、逆さ吊りにして鞭打つなど珍しくもない。凄惨な拷問と弾圧で、これまでに120万人が殺害されたと報告されている。
加えて凄まじい移住政策がある。人口600万人の国に、現在まで720万人の漢民族が入った。しかもそこには少なくとも50万人の軍人が含まれる。

●チベットには今でも労改と呼ばれる強制収容所が多数あり、中国に反抗するチベット人が捕らわれている。逮捕・拘束され拷問を受けているチベット人の数は、その実数さえわからない。(ペマ・ギャルポ氏) 

週刊朝日の「2006/11/10号」では、次のように紹介されています。

●1949年から79年の間に中国当局の弾圧で、全人口の5分の1に当たる約120万人のチベット人が命を落とし、6千を超える寺院が破壊されたという。

●中国は表向き、「チベットでは信仰の自由は保障されている」と主張するが、これもウソである。逃げ延びた僧侶の1人、トゥプテン・ツェリンさん(23)はこう証言している。「私は信仰の自由のために亡命しました。チベットの僧院では中国政府によって『愛国教育』と呼ばれる行為が行われている。全員がダライ・ラマをののしることを強要されるのです」
ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされ、チベット仏教の信仰の中心となっている。その人物への侮辱を強要されて、信仰の自由があると言えるのか。

2.「チベット族」と「中国(漢民族など)」との攻防の歴史

現在は中国の一部とされている「チベット自治区」は、かつては一つの「独立国家」でした。チベットは独自の言語(チベット語)・宗教(チベット仏教)・風俗を持つ「民族国家」で、漢民族とは相容れない部分を多く持っていました。

そのため、チベットの住民は、政治的な地位の確立と向上を求めて、それを許さない中国当局と対立を続けているわけです。

(1)第二次大戦後のチベットと中国の攻防

1950年の「チベットへの中国の武力侵攻」以降、チベット人による度重なる対中蜂起⇒鎮圧⇒蜂起⇒鎮圧を繰り返してきました。

この弾圧は、チベット族を「中国共産党の一党独裁体制を脅かす危険分子」とみなしていることが原因のようですが、裏を返せば「中国共産党一党独裁体制の危機感の表れ」とも言えると思います。

(2)第二次大戦以前のチベットと中国の攻防

7世紀半ば、チベット全域を支配する古代チベット王朝が誕生しました。これが実質的なチベット建国です。当時の中国(隋)は、この地域を「蕃」「吐蕃」「大蕃」などと呼んでいました。満州族の清朝・雍正帝の時代(1723年~1724年)にチベット・グシ・ハン王朝(1642年~1724年)を征服し、チベットを支配することになります。

しかし、1912年に清朝が滅亡すると、チベットはモンゴルと歩調を合わせて国際社会に「独立国家としての承認」を求めるとともに、チベット全域を「ガンデンポタン(チベット亡命政府)」のもとに統合すべく、孫文率いる「中華民国」との間で武力衝突を伴う抗争を行いました。

ちなみに「ガンデンポタン」というのは、ダライ・ラマを長とし、ラサに本拠を置く1642年に成立したチベット政府です。1959年の「チベット動乱」の際に、ダライ・ラマとともにインドに脱出し、現在は「チベット亡命政府」として、十数万人からなるチベット難民組織の頂点に位置しています。

3.中国の歴史と「漢民族」

「中国4,000年」(*)の長い歴史の中で、「漢民族」が支配した時代は四分の一程度(「漢」「明」)で、そのほかは「異民族支配」による「征服王朝」の時代が四分の三程度と言われています。ただし、異説もあります。「隋」や「唐」の皇帝は北方系民族の血筋を引いていますが、完全に漢文化に同化した王朝でした。

(*)「中国4,000年」について

よくテレビなどで「中国4,000年の歴史」というフレーズが出てきますが、これは考古学的に実在が確認されている「殷王朝」(BC.17世紀頃~BC.1046年)があり、殷王朝は「夏」(BC.1900年頃~BC.1600年頃)を滅ぼして建国したと史書に記されていることから来ています。

4.「漢民族」とは

「漢民族」の由来は、「漢の時代」(前漢:BC.206年~AD.8年、後漢:AD.25年~220年)以前に遡ります。

漢の時代以前から「中原(ちゅうげん)」(黄河文明発祥の地である黄河中下流域にある平原)に住んでいた部族「華夏族」が漢民族のルーツです。

漢民族は古くから自民族中心主義の思想(中華思想)を持っており、自らを「夏」「華夏」「中国」と美称し、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を、文化程度の低い夷狄(蛮族)として卑しんできました。「夷狄」とは、「四夷」(東夷・西戎・南蛮・北狄)のことで、中国の四方に居住する異民族に対する蔑称です。

しかし、「漢民族」は、純粋な単一民族ではなく、長年にわたる異民族による支配の中で民族の混交・融合によって出来た民族です。

つまり、「漢民族が異民族を感化・教化・同化して中国文明を築き上げてきた」という「中華思想」は虚構で、実際には「絶え間ない異民族の侵略・征服・支配に悩まされ続け、民族・人種の混合や異文化の恩恵も受けて現在の中国がある」というのが真実のようです。


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