一休さんは天皇のご落胤!?型破りな行動と言葉を残した風狂の僧の真の姿とは?

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一休宗純

一休さんと言えば、「このはし渡るべからず」や「屏風の虎退治」などの頓智話で「頓智の一休さん」として広く親しまれていますが、最後には臨済宗大徳寺派の高僧(四十八世住持)にまで上り詰めた一休宗純という僧侶です。

今回はこの一休宗純の本当の姿を探ってみたいと思います。

1.一休宗純とは

アニメの一休さんはかわいい小僧さんとして描かれていますが、一休宗純の肖像画を見ると、1972年にグァム島で27年間のジャングルでの潜伏逃亡生活を経て発見された元日本兵の横井庄一さん(下の写真)を彷彿とさせるような風貌ですね。

横井庄一

一休宗純(1394年~1481年)は、後小松天皇(1377年~1433年)のご落胤と言われています。母親は、南朝の花山院某の娘とも、日野照子(伊予の局)とも言われています。後小松天皇の寵愛を受けて身ごもりますが、ねたまれて追放され、京都嵯峨で一休を産んだとされています。

そういう事情もあって、彼は6歳で京都の安国寺(臨済宗)の像外集鑑に入門し、「周建」と名付けられます。早くから詩才に優れ、13歳で漢詩「長門春草」、15歳で漢詩「春衣宿花」を作り洛中の評判となったそうです。

彼は子供の頃から機知に富んでいて、いろいろな逸話を残しています。最初にあげた有名な逸話以外にも次のような話があります。こんなところから「頓智の一休さん」の話が生まれたのですね。

<「皮をつけたもの入るべからず」という逸話>

お寺に毎日夕方になるとやって来る織物屋の主人久兵衛さんがいました。久兵衛さんは和尚と夜遅くまで碁を打っていて、夜中の1時、2時までいることもあります。

朝早く起きなければいけない小僧たちには実に迷惑な話でした。

そこで彼は一計を案じて寺の門に次のような張り紙をしました。

皮をつけたものは寺に入るべからず。入ればばちあたるべし

久兵衛さんが彼をやりこめてやろうと、平気で入って来ました。彼が「お寺は仏様を安置する清らかなところです。殺生をした毛皮を着た人に入られると、汚れますのでお帰りください」と言いました。

久兵衛さんは「それはおかしい。本堂にある太鼓には皮が張ってあります。太鼓がいいなら私も入らせてもらいます」「お待ちください。奥へ入ると頭を叩きますよ」「それは無茶な」「いいえ、本堂の太鼓は皮が張ってあるので、毎日ばちで叩かれているのです。それでよければお入りください。さあみんな、太鼓のばちを持って来るように」と彼が言うと小僧たちは一斉に本堂へ走って行きます。久兵衛さんは「いや、参った。それなら帰ります」と言って帰って行きました。以後はたまにしか来なくなり、来ても早めに帰るようになったということです。

17歳で謙翁宗為の弟子となり、「宗純」に改名しています。謙翁が亡くなった1414年ごろに彼は自殺未遂を起こしています。

1415年に、彼は京都大徳寺の高僧華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入りします。「洞山三頓の棒」という公案に対して、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」と答えたことから、「一休」の道号を授かります。

「有漏路」とは「迷い(煩悩)の世界」のことで、「無漏路」とは「悟り(仏)の世界」のことです。

1420年、彼はある夜カラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。華叟は「印可状」(いわゆる「お墨付き」)を与えようとしますが、彼は辞退します。華叟は「馬鹿者」と言って彼を送り出したそうです。

1470年、76歳になった彼は、摂津国住吉大社の薬師堂で盲目の美女「森侍者(しんじしゃ)」と出会っています。彼女は「森女(しんじょ)」「森盲女(しんもうじょ)」とも呼ばれていますが、幾多の女性遍歴をした一休禅師の最晩年の愛人となります。

彼の「狂雲集」という詩集には、森侍者との情事を詠んだ「美人陰有水仙花香」(美人の陰(ほと)に水仙花の香り有り)という漢詩があります。

「楚台まさに望むべく 更にまさに攀じるべし 半夜の玉床に愁夢の顔

花は綻ぶ一茎梅樹の下 凌波仙子は腰間に纏う」

「森侍者」は、次のような和歌を残しています。

「おもひねの うきねのとこに うきしづむ なみだならでは なぐさみもなし」

1474年、後土御門天皇の勅命により、大徳寺の住持に任ぜられます。寺には住みませんでしたが、大徳寺再興に尽力しています。また、戦災に遭った妙勝寺を中興し、そこに草庵「酬恩庵」(現在の京田辺市)を結んで晩年を過ごしました。

彼は正式に後小松天皇の子として認知されていれば、天皇にもなり得たかもしれませんが、母親が追放の憂き目にあった結果、その望みも絶たれたことを認識していたのでしょう。

そのため、彼は政治的野心を捨て、開き直って自由奔放に生きる決意をしたのではないかと思います。

飲酒・肉食・男色・女犯など「破戒僧」「生臭坊主」の面目躍如の生活を送ったようです。彼は晩年、臨済宗から浄土真宗に宗旨替えをしたようですが、これは親鸞(1173年~1263年)の創始した「浄土真宗の教え(「僧侶の肉食妻帯を認める」「戒律がない」)の方が自分の考えに合っていると思ったからでしょう。

しかし逆に言えば、表向きは悟りすましたような態度で信者から金を集めながら陰で遊ぶような当時の堕落した宗教界・僧界に対して、痛烈な批判をするために、自らの狂態を隠すことなくさらけ出し、彼らの偽善を暴きたかったのかもしれません。

2.一休宗純の風狂と奇行

(1)風狂

風狂」とは、仏教、特に禅宗において重要視される仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は「破戒」として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を表したものとして肯定的に評価する言葉です。

一休宗純がその代表者と言われています。彼は「狂雲子」とも号しており、「狂雲集」という詩集の名前の由来となっています。

彼は「偽善者」に対抗するために、わざと「偽悪者」として行動したのかもしれません。

(2)奇行

彼の奇行として有名な話がいくつもあります。

ある年の正月、杖の上に「髑髏(しゃれこうべ)」を付けて、「ご用心、ご用心」と京の町を歩きます。「一休さん、正月早々何ですか?」と尋ねられると次のような狂歌を詠んだと言われています。

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

彼は同時代を生きた浄土真宗の蓮如上人(1415年~1499年)と親交がありました。二人にはこんな逸話が残っています。

彼が蓮如の留守中に部屋に上がり込んで、阿弥陀如来像を枕に昼寝をしていたところ、そこへ戻って来た蓮如は怒るどころか「俺の商売道具に何をするか」と言って二人で笑いあったそうです。

3.一休宗純の詩・狂歌・言葉

彼は詩・狂歌・書画を数多く創作して「風狂」の生活を送りました。

彼は詩集「狂雲集」で、「昨日は俗人、今日は僧」と自由奔放な生活ぶりを詠じています。

当時の堕落した宗教界・僧界を痛烈に皮肉った狂歌に「みな人は 欲をすてよと すすめつつ 後で拾うは 寺の上人」というのがあります。

京都の寺の事情に詳しい知人から聞いた話ですが、「現代の京都の花街は京都の有名な寺の坊主で持っている」そうです。昔の京の色里も現代と同様かそれ以上だったのかもしれません。

その他にも次のような狂歌や言葉を残しています。

「釈迦といふ いたづらものが 世に出でて おほくの人を まよはすかな」

「花は桜木 人は武士 柱は桧 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」

「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」

「世の中は 起きて箱して(糞して) 寝て食って 後は死ぬを 待つばかりなり」

「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと 言うが愚かじゃ」

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