「おかげ参り」の流行と「ええじゃないか」騒動はどうして起きたのか?

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おかげ参り

<伊勢参宮・宮川の渡し>(歌川広重)

1.「おかげ参り」

おかげ参りの旗

(1)「おかげ参り」とは

「おかげ参り」とは、「江戸時代、数次にわたって見られた伊勢神宮への民衆の大量群参のこと」です。江戸時代の「民衆のエネルギー爆発」の一つとされています。

江戸時代、伊勢参りは全期間を通じて流行しましたが、中でも特定の年(お蔭年)には参宮が熱狂的に行われ、数百万人規模の民衆が伊勢神宮に押し寄せました。「お蔭年」とは、伊勢神宮の遷宮があった翌年で、この年には特にお蔭(恩恵)を授かるとされて参詣者が特に多くなったのです。

慶安3年(1650年)・宝永2年(1705年)・明和8年(1771年)・文政13年(1830年)がその代表的な年で、ほぼ60年周期で起こっています。

「おかげ参り」の最大の特徴は、「奉公人などが主人に無断で、妻が夫に無断で、または子供が親に無断で参詣したこと」です。このため「抜け参り」とも呼ばれます。もちろん、町内を代表しての「代参」もありました。上の絵にも描かれていますが、主人の代わりに代参する「おかげ犬」もいました。

大金を持たなくても「信心の旅」ということで、沿道の施しを受けることができました。「四国八十八箇所巡礼のお遍路さん」のようなものだったのでしょう。

(2)「おかげ参り」が起きた原因

①伊勢神宮の「御札(神符)」が空から降って来たこと

これは怪奇現象でも何でもなく、「御師(おし/おんし)」がばら撒いたものです。たぶん火の見櫓か里山などの高所から風に乗せて撒いたのではないかと私は想像します。また「御札が降って来た」という噂を流したこともあったのでしょう。

②「御師」による全国的な宣伝・布教活動が功を奏したこと

「御師」とは、「特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者」のことです。平安時代には「熊野詣」で有名な「熊野御師」がおり、鎌倉時代から室町時代にかけて、伊勢神宮・富士講・大山・白山の御師も活躍します。

今風に言えば、特定の寺社と結びついた「観光旅行業者」のようなものです。特に伊勢や富士は、全国に檀那を持つにいたります。伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の「伊勢講」の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊に迎え入れて便宜を図っています。

また御師は、外宮に祀られている豊受大御神を広めるため、農民に伊勢神宮に参詣してもらえるよう暦を配るなどの布教活動をしています。

③伊勢神宮参詣名目の通行手形があれば自由に旅行できたこと

「お伊勢参り」の名目で東海道や京・大坂の観光(物見遊山)が出来るのですから、江戸時代の庶民にとっては大変魅力的です。現代のように自由に旅行できるわけでなかったので、「おかげ参り」は絶好の機会だったのでしょう。

④旅行費を積み立てる「伊勢講」も盛んに行われていたこと

「伊勢講」に入った人々から金を集め、「くじ引き」で2~3人の代表者を決めて伊勢神宮に「代参」したようです。そして、行けなかった人には「お土産」を持ち帰ったようです。

2.「ええじゃないか」

ええじゃないかのお札

(1)「ええじゃないか」とは

「ええじゃないか」とは、「1867年に東海地方に起こり、1868年にかけて近畿・四国・中国・甲州・信州のほか江戸や東北にも波及した大衆乱舞の民衆運動のこと」です。人々が「ええじゃないか」と歌い踊りながら町や村を巡り歩いたそうです。

民衆の「世直し要求」を一種の宗教的熱狂の形で表現したものと言われていますが、討幕派が「社会秩序の攪乱」のためにこれを利用したとも言われています。

大勢の老若男女が「ええじゃないか」と高唱しながら地主・富商の家に入り込んで、物品や酒食を強要したそうです。「打ちこわし」や「百姓一揆」までは行かない「世直しを求める鬱憤晴らし」だったようです。

(2)「ええじゃないか」が起きた原因

①伊勢神宮の「御札(神符)」などが空から降って来たこと

「おかげ参り」の時との違いは、今回はそれぞれの地域の寺社の「御札」が降って来たことです。一部には伊勢神宮の御師が伊勢神宮の御札をばら撒いたのもあったでしょうが、大半は討幕派がそれぞれの地域の寺社の御札をばら撒いたのではないかと思います。

「御札が降って来たらしいという噂話」から広まったという説もあれば、幕府に不満を持つ討幕派が御札を降らせて意図的に倒幕運動への機運を高めるのに利用したとの説もあります。

②農村に「おかげ参り」の伝統があったこと

③民衆の不満が長年鬱積し、世直しへの願望が蔓延していたこと

歌詞は各地でいろいろあったようです。

「今年は世直りええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊りはお目出度い」(阿波)、「長州がのぼた、物が安うなる、柄じゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、柄じゃないか」(備後)など

平安時代の空也や鎌倉時代の一遍上人による「踊り念仏」や、終戦直後に出来た「踊る宗教」(天照皇大神宮教)という新興宗教がありました。しかし、これらの「宗教」や、安土桃山時代に阿波国で始まった「阿波踊り」のような「毎年一回の祭り」とは異なり、「一時的なお祭り騒ぎ」なので、「討幕派が仕組んだ扇動」というのが真相のように思います。

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