ミャンマーの「軍事クーデター」の背後に中国の影!?今後日本への影響は?

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ミャンマー・アウンサンスーチー拘束への抗議デモ

1.ミャンマーでの軍事クーデター発生

2021年2月1日、ミャンマーで軍事クーデターが起き、民主勢力のリーダーで与党・国民民主連盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー国家顧問が与党議員らとともに拘束されたとのニュースがありました。

「国軍出身のミンスエ第一副大統領」が「暫定大統領」になり、「1年間の国家非常事態宣言を発出し、国軍が政権を掌握した」とのことです。

また「ミン・アウン・フライン国軍総司令官」に全権力が委譲され、「事実上の国家指導者」になったことをミャンマー軍が一方的に宣言しました。

2011年に「民政移管」したミャンマーで、10年足らずで軍政が復活したことで、国連や欧米諸国などからは批判が相次いでいます。日本は加藤官房長官が当事者に対して「平和的解決を要請」し、茂木外相は「民主化プロセスを損なうことに重大な懸念を表明」しました。

2.軍事クーデターが起きた背景

(1)選挙不正問題

2020年11月8日に実施された総選挙に関して「選挙不正問題」があったとする国軍の主張が、今回の軍事クーデターの背景にあります。

ミャンマーの総選挙の結果は、与党NLDが前回の総選挙を上回る396議席を獲得し、改選議席476議席の8割以上という圧勝でした。国軍はこの結果を疑問視しているようです。

ただし、日本や欧米の「選挙監視団」は、「選挙は公正だった」としています。

2020年のアメリカ大統領選挙でも、トランプ前大統領が「選挙不正問題」を訴えていました。こちらは今年1月6日にトランプ支持者による「議事堂乱入事件」がありましたが、今年1月20日のバイデン大統領就任で一応決着しました。

(2)少数民族武装勢力との和平協議に進展なし

アウンサンスーチー政権の最大の課題とされていた「少数民族武装勢力との和平協議」に進展が見られないため、事前の予測では「NLD苦戦」も予想されていました。しかし結果は「NLD圧勝」でした。

ちなみに「少数民族武装勢力」の多くは和平協議のテーブルに着いたのですが、まだ抵抗を続けている一部の少数民族武装勢力の背後には中国がいるとの情報もあります。

(3)少数民族ロヒンギャへの迫害問題

ロヒンギャ迫害

国連がロヒンギャのジェノサイド(大量虐殺)の可能性を指摘している2017年8月の軍事弾圧の後、約74万人のロヒンギャが難民となってミャンマーのラカイン州からバングラデシュに向かいました。

当時ミャンマーの事実上の政権トップだったスーチー氏は、2019年に行われたロヒンギャに対する性的暴行や殺人などの残虐行為に関する国際刑事裁判所(ICC)の公聴会で、国軍を擁護しました。

バングラデシュの難民キャンプのリーダーのファリド・ウラー氏は、スーチー氏拘束の知らせに「私たちの全ての苦しみの原因は彼女だ。祝わない理由がない」と語り、もう一人のリーダーのモハマド・ユスフ氏は「彼女は最後の希望だったのに、私たちの窮状を無視し、ロヒンギャに対するジェノサイドを支持した」と不満を述べています。

今回の総選挙では、西部ラカイン州に住む多数のロヒンギャは「不法移民」として選挙権が認められなかったほか、少数民族政党が地盤とする一部地域の投票が、治安上の問題を理由に取り消されたため、100万人以上が投票権を剥奪されたとのことです。

(4)選挙の不正に抗議したが認められなかった国軍による最終的な実力行使

国軍は総選挙に不正があったとして抗議し、軍の支持者からは選挙の調査を求める声が上がりました。軍は1月26日にクーデターの可能性を示唆しています。

しかし選挙管理委員会が「総選挙が公正かつ透明に行われた」との見解を発表したほか、国連やアメリカ・EUは「選挙結果の尊重」をミャンマー軍に呼びかけました。

1月28日には政府と軍の間で事態打開に向けた話し合いが持たれ、その中で軍は票の再集計や議会開会の延期を求めましたが、政府側は拒否しました。

議会開会前日の1月31日に軍は、「総選挙で1050万件を超える不正があった可能性」を主張し、「議会が2月1日に開会されること」にも反対しました。

結局「交渉決裂」で国軍が実力行使に踏み切ったというわけです。

3.「選挙不正問題」の真相解明期待と中国の新植民地主義「一帯一路構想」への懸念

国軍を抑えきれなかったのかもしれませんが、アウンサンスーチー政権は「ロヒンギャ迫害問題」を放置するなど人権問題に誠実に対応していたとは言えません。

最近アウンサンスーチー政権は「一帯一路構想」を持つ中国から経済支援を受けるなど急接近していました。

中国は南シナ海でのフィリピンやベトナム、マレーシアなどとの領有権問題を抱えているため、南シナ海やマラッカ海峡を避けて、インド洋からミャンマー経由で石油などを輸送するルートを確保したいのではないかと思います。

中国がミャンマーを取り込もうとしていることは間違いなく、軍事政権の方が中国にとってはより都合がよいため、クーデターを非難していないのではないでしょうか?というのは、軍事政権になれば欧米諸国による経済制裁も予想され、ミャンマーの中国への依存度がさらに高まるため、中国には好都合だからです。

もし国軍が主張するような「選挙不正」があったとすれば、公正な第三者機関による徹底的な真相解明を期待したいと思います。

ただし、433社もの日本企業が進出していることから、とりあえず日本政府には軍事政権と緊密に連絡を取って日本企業の保護に万全を期してほしいと思います。

今後ミャンマーに対しては欧米諸国が主導する「経済制裁」が行われることや、「政情不安定化」が懸念されるため、「製造業の日本回帰」をさらに推進すべき時期になっていると思います。

4.アウンサンスーチー国家顧問とは

アウンサンスーチー

アウンサンスーチー氏(1945年~ )は、英国の植民地支配と闘った「ビルマ建国の父」として敬愛されるアウン・サン将軍(1915年~1947年)の長女として、ビルマの首都ラングーン(現在のヤンゴン)に生まれました。

1947年2歳の時に父が暗殺されました。1962年のネ・ウィン将軍のクーデター後、駐インド大使に任命された母とともに、ニューデリーに移りました。

その後、オックスフォード大学へ留学し、1972年にチベット研究家のイギリス人と結婚し、2人の息子がいます。

1988年4月に病気の母を見舞うために帰国しましたが、ちょうど民主化運動が高まる激動期でした。

同年8月セイン・ルイン政権が崩壊し新たな軍事政権が誕生すると、「反政府統一戦線結集会」で「民主化の早期実現」を訴え、「反政府勢力の中心的存在」として脚光を浴びました。

同年9月にはビルマ最大野党の「国民民主連盟(NLD)」総書記長に就任しました。

1989年6月には軍事政権「国家法秩序回復協議会」が国名の英語表記を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更しましたが、この頃から再び反政府運動が激化したため、7月には軍事政権によってヤンゴンの自宅に軟禁され、以後政治活動を禁止され、2010年まで断続的に軟禁状態が続きました。

軟禁中の1991年に「民主主義と人権のための非暴力闘争の勇気」に対して「ノーベル平和賞」が授与されました。

2010年11月に自宅軟禁が解かれました。2011年春にミャンマーは民政に移管しました。2012年1月にはNLD議長(党首)に選出され、4月の連邦議会補選で下院議員に初当選し、2013年3月には党首に再選されています。

2015年11月、民政移管後初の総選挙で、NLDが軍事政権の流れを汲む与党・連邦団結発展党(USDP)に圧勝し、第一党となりました。

テイン・セイン大統領は、「平和的に政権を委譲する」との声明を発表し、1960年代より続く軍事政権からの政権交代を認めましたが、憲法では「外国籍の親族のいる人物の大統領資格を認めていない」ため、大統領に就任できず、「国家顧問」という新たな役職を作って事実上の「最高権力者」の地位を確保しました。

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