前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。
第15回は「烏亭焉馬」です。
1.烏亭焉馬とは
烏亭焉馬(うてい えんば)(1743年~1822年)は、江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家です。本名は中村英祝で、通称は和泉屋和助(いずみやわすけ)です。
住まいの相生町(あいおいちょう)の竪川(たてかわ)をもじった「立川焉馬(たてかわえんば)」や、親交のあった5代目市川団十郎をもじって「立川談洲楼(たてかわだんしゅうろう)」または「談洲楼焉馬(だんしゅうろうえんば)」と名乗ることもありました。
また、狂歌においては、大工道具をもじった「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」の号を用いることもありました。
本所相生町(現・緑1丁目)の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務めています。大工として大田南畝宅を手がけたほか、足袋や煙管・仙女香も扱いました。
俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きでした。
戯作は1777年(安永6年)ごろから手を染め、活動はほとんどのジャンルにわたりました。また平賀源内や大田南畝などとの親交を通じて、やがて江戸浄瑠璃の作者となり、芝居関係にも顔の利く存在となって、市川団十郎の贔屓(ひいき)団体「三升連(みますれん)」を組織して、代々の団十郎を大いに守り立てました。
4代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃『花江都歌舞妓年代記』『太平楽巻物』『碁太平記白石噺』などがあります。
1783年(天明3年)柳橋河内屋で、自作の戯文『太平楽記文』を朗誦した後、落咄(おとしばなし)を演じて好評を博しました。これが江戸落語再興の契機となりました。
1786年(天明6年)に町大工の棟梁になり、向島の料亭武蔵家権之方で「噺の会」を主宰したことから、落語に関わりを持つようになりました。
「噺の会」は素人が新作の落とし噺をする会で、そこから自作自演の噺が流行し、四方赤良・鹿都部真顔・朱楽菅江・大屋裏住・宿屋飯盛・竹杖為軽等の様々な狂歌師や落語家が登場することになり、衰退しつつあった江戸落語の再興に至りました。
また、団十郎を後援する「三升連(みますれん)」(「三升」は団十郎の定紋)を結成しましたが、「噺の会」とともに口演の普及につながりました。
1822年(文政5年)、79才で死去し、本所表町の最勝寺に葬られました。
2.烏亭焉馬の老後の過ごし方
彼は当時の「劇文壇・劇界のパトロン」としても知られました。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、「落語中興の祖」とも言われます。戯作と芝居と狂歌と落咄という江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役という役割を担った親分肌の人物であったようです。
門弟には朝寝房夢羅久、初代立川談笑、談語楼銀馬、2代目朝寝坊むらく、初代三遊亭圓生、2代目焉馬等がいます。
晩年、市川団十郎の顕彰を意図して刊行した『花江都歌舞妓年代記』(1811年~1815年)は、江戸歌舞伎の根本資料として貴重です。