前に「江戸いろはかるた」を紹介する記事を書きましたが、江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」というのがあるのをネットで見つけましたのでご紹介します。
これは、Ahomaro Ufoさんが作られたものです。この「川柳いろは歌留多」は江戸川柳「柳多留」から、庶民の生活を詠んだ川柳を<現代語解釈>で表現した不思議な空間です。
江戸の庶民風俗を浮世絵と明治大正時代の手彩色絵葉書や昭和30年頃までの広告などを巧みに取り入れた時代絵巻は、過去例を見ない雰囲気を醸し出しています。
Ahomaro Ufoさんが作られたものを、私なりにアレンジしてご紹介します。
1.ゑ:恵方(ゑほう)には歳徳神(としとくじん)の女連れ
「恵方参り」とは、正月元日にその年の恵方に当たる神社に参詣することです。恵方は吉方とも書かれ、毎年の干支により歳徳神が来訪すると考えられ、年ごとに吉方に当たる神社が変わりました。
この時ばかりは女連れで参拝する者が多く、遊里は寂しかったとも言われています。
2.ひ:日に千両吉原魚河岸(うおがし)芝居町(しばいまち)
江戸で一日千両の商いをするのは、吉原の遊郭、日本橋の魚河岸と猿若町の芝居小屋であったと言われています。
猿若町の芝居小屋は天保の改革以降で、それまでの「江戸三座」(中村座・市村座・森田座)は日本橋近くに集中しており、日本橋周辺は今と変わらず一大遊興地として栄えていました。
3.も:物陰で暮らす陰間も夢所帯
「陰間」とは江戸の男娼(ホモ)のことです。とりわけ芳町には最盛期百人以上の陰間がいたそうです。芳町に陰間が多かったのは、男娼の供給源である芝居小屋の市村座と中村座があったからです。陰間には役者修行中の者が多く、芝居に出ている者を舞台子とか色子と言いました。
陰間は12歳から18歳の美少年で、20歳を越えた年増陰間は女性の相手も務めました。陰間の主な客は女色を禁じられた僧侶が多く、「芳町は和尚をおぶい後家を抱き」という川柳も残っています。
20歳近くになると、所帯を夢見る陰間も多くなりましたが、実際には商家の後家の世話係として余生を送る者が多かったそうです。
4.せ:節分は豆と一緒にお札蒔(ま)く
立春を祝う節分には、神社仏閣で厄払いの豆まきが行われました。江戸時代当時の節分は年末で、一年の厄を払い新春に向けて節分祈祷の守札も一緒にまいたそうです。
『東都歳時記』には次のように書かれています。
今夜尊卑の家にて煎豆を散、大乾鰯の頭を戸外に挿す。豆をまく男をとしをとこといふ。今夜の豆を貯へて、初雷の日、合家是を服してまじなひとす。又今夜いり豆を己が年の員に一ツ多く数へて是を服す。世俗今夜を年越といふ。
5.す:すみだ川業平のころ都鳥(みやこどり)
『伊勢物語』によると、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)は京からはるばる隅田川のほとりまで来て、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠んでおり、どうやらこの川に棲む水鳥の美称のようです。
しかし土地の人にはただの「鴎(かもめ)」(ゆりかめも)で珍しくも何ともない鳥だと言っています。
「角田川所の人は鴎也」という川柳もあります。
6.京:京伝の戯作(げさく)は江戸の洒落通書(しゃれつうしょ)
山東京伝は江戸後期の戯作者・浮世絵師です。住居が江戸城紅葉山の東方に当たるので山東庵、また京橋に近いので京伝と号しました。
初め北尾重政に浮世絵を学び、北尾政演(きたおまさのぶ)と号し、後に作家となりました。黄表紙や洒落本で人気を博しました。
『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき』の主人公が、色男を気取る獅子鼻の道楽息子艶二郎だったために、当時吉原では色男を気取る自惚れ屋を艶二郎と呼ぶのが流行したそうです。