残念な天皇の話(その3)。素行不良で殺人の疑いも掛けられた陽成天皇とは?

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陽成院

前に「残念な天皇の話」として、「花山天皇」と「冷泉天皇」の記事を書きましたが、今回はそれ以上に残念な「陽成天皇」をご紹介したいと思います。

1.陽成天皇とは

陽成天皇系図

陽成天皇(869年~949年、在位:876年~884年)は、第57代天皇です。清和天皇(第56代)の第一皇子で、母は太政大臣藤原長良の娘で女御の高子です。

歴代天皇の中でも異常な行動が多かったと言われています。囚人を裸にして塔の上で射殺したり、女官を縛った上で池に投げ込み溺死させたり、犬と猿を殺し合わせて見物するなど、人としてそもそも異常で残虐な行動が多かったようです。

生後2カ月で皇太子となり、わずか7歳で即位したため、母方の伯父藤原基経が摂政となりました。しかし彼は狂躁性があった上に素行も悪く、次に述べる殺人事件が起こったため884年に退位させられました。

883年に、彼の乳母(めのと)紀全子(きのまたこ)の生んだ源益(みなもとのみつ/まさる)が宮中で天皇に近侍していた時に殴殺される事件が起きます。宮中での殺人事件のため秘密にされ、部外者には詳細は伏せられていました。

ただしこの事件は、当時天皇との関係が悪化して出仕を拒否していた藤原基経が画策したという説もあるようです。

しかしこの事件に天皇が関与していた、あるいは天皇自身が起こしたという噂が立ったため、藤原基経は15歳の彼を退位させ、仁明天皇(第54代)の皇子である光孝天皇(第58代)を即位させました。

九条兼実の日記「玉葉」にも、彼が事件に関与していたとの風聞があったことが記されています。

80歳で亡くなるまでの実に65年間を上皇(歴代最長記録の上皇)として過ごしました。

彼の唯一の歌が、「筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」です。

2.殺人を犯した天皇

与謝野晶子の有名な「君死にたまふことなかれ」という日露戦争に出征して旅順口包囲軍にある弟の安否を気遣うとともに、明治天皇を非難するような反戦詩があります。

あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの舊家(きうか)をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、すめらみことは戰ひにおほみづからは出でまさねかたみに人の血を流し獸(けもの)の道に死ねよとは死ぬるを人のほまれとは大みこゝろの深ければもとよりいかで思(おぼ)されむ。(後略)

殺人を犯した天皇と言えば、中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに「乙巳(いっし)の変(645年)」を起こし、蘇我入鹿を暗殺しています。ただし、これは政治的なクーデターなので、「殺人事件」としては扱われていません。

また古代の卑弥呼以来、歴代天皇は各地の豪族を征服して行ったり、武家政権に対抗する内乱の戦闘の中で、あるいは外国との戦争を遂行する中で、直接・間接に人を殺していることは紛れもない事実です。

しかし、陽成天皇の場合はそういうクーデターや戦闘・戦争の中での殺人事件ではありませんでした。

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